義胡府国風土記~旅と外出~

5年間放置していました

3年ぶりの石巻での一日


長期的&継続的に被災地支援を行っている愛知県ボランティアセンターの活動に参加して宮城県石巻市に行って来ました。

被災地を訪れるのは震災四ヵ月後の2011年7月以来の二回目。しかしその際は次第に復旧が進みつつあった観光地を敢えて観て回るという目的で訪れたので津波被災地には足を運ばず、松島や平泉を観て周り青森まで行き、帰りに石巻で笹かまぼこを買って帰るという行程でした。物見遊山に被災地に足を運ぶのは躊躇われたので、そういう行程にしたのですが東松島市で甚大な被害に見舞われた野蒜地区の惨状を目の当たりにして途方に暮れたあの時がほんの数ヶ月前の事のよう思い出されます。

それ以来、いつか再訪して何かしらの支援活動なりに携わりたいと思いを抱いておりましたが3年の月日が経ってようやく実現する事が出来ました。全車中泊、片道13時間のバス移動を伴う0泊3日の強行軍で写真も作業の合間や移動中に撮影した雑なものしかありませんが書き記しておきたいと思います。


◆◆門脇地区で見た光景◆◆


愛知ボランティアセンターが活動しているのは宮城県石巻市の十八成浜(くぐなりはま)という小さな入江にある集落なのですが、十八成浜に向かう前に石巻市の市街地に近い門脇という地区に立ち寄りました。見渡す限りの更地が広がっており、これから工業団地の建設でも始まる臨海地区のような雰囲気ですが、3.11以前、ここには多くの人々の生活があった訳です。



この地で多くの方が亡くなり、反面多くの方が助かった。戦場でもない、普段何気なく生活をしていた街での無情な仕打ち。このような悲惨な状況が震災後、青森から千葉県までの沿岸部のいたるところで起こっていたかと思うと改めて東日本大震災の被害の大きさを思い知らされます。前回、東北を訪れた際、一山越えた向こうの街ではほぼ日常を取り戻しつつある格差に、感じた事の無い心苦しさを覚えましたが、実際に被災した地区を足を運んでみると、一山どころか曲がり角一つの差で生死の分かれ目が存在しているようでいたたまれなくなりました。



門脇地区における津波は6.9メートルだったようでその高さを示す表示がありました。ニュース等で見聞きして、家々を飲み込む津波の高さについてはある程度は理解しているつもりでしたが、実際に現地においてその高さを示されるとただただ唖然とするばかりで、足がすくむというか、首を上に向けたまましばらくその場を動くことが出来ませんでした。遠く離れた地でテレビやパソコンの画面超しに見る事で知った津波の恐ろしさよりも、実際に自分のいる空間に於いて、遥か頭上に到達した津波の高さを示される事の説得力の異常なまでの強さは忘れる事が出来ません。




◆◆十八成浜でのこと◆◆




門脇地区を後に十八成浜までやって来ました。



震災から3年が経ったとはいえ、実際に被災した地で活動を行うという事で、振舞い方や感情のあり方について不安を覚えていた初参加のボランティアも多くいたかと思いますが、十八成浜の皆さんは笑顔で出迎えて頂き、幾分不安も和らいだ方は多かったと思います。地区の集会所に移動し簡単なミーティングを終えて作業に取り掛かりますが、参加ボランティアは主に3つの班に分かれて活動を行いました。

○昼食を作り仮設住宅の皆さんと食事をする活動
仮設住宅以外も含めた十八成浜地区全戸を訪問する活動
○主に力仕事の何でも屋的な活動

ざっくりした説明ですがこの3つの活動をしています。

自分が参加したのは三番目の力仕事。以前は瓦礫処理等が主な活動内容だったようですが、現在は地域に様々な木々を植樹して十八成浜を桃源郷のようにしようというプロジェクトのお手伝いが主な活動内容となっています。



十八成浜地区はかつて美しい砂浜で有名で、宮城県でも名の知れた海水浴場だったようです。また鳴き砂でも有名であり「クックッ」と砂が鳴るから九+九で十八成浜となったと言われています。景勝地として賑わい発展してきた地域であった反面、海沿いの集落としては稀な漁港を有しない地区であったとの事でした。

それじゃぁ瓦礫処理が終わったら砂浜を復元して海水浴客や鳴き砂目当てに訪れる人を受け入れる事の出来る本来の姿に戻せばいいのかと思うかもしれませんが、残念ながらそうはいきません。


何故なら、砂浜は震災による地盤沈下によって消滅してしまったからです。



漁業等で栄えた地区であれば関連施設の復旧を行うことで、元の姿に近い形の復興は出来るのだと思いますが(それはそれで困難ではあると思いますが)、人々が集まることで繁栄してきたといえる十八成浜地区では、瓦礫処理が終わり更地のようになってしまった現状では、そもそも復興させるものが無いという現実があります。津波に流された場所には家々を建てる事が出来ない訳で、肝心の砂浜も無くなった・・・・つまりは誰も来ない街になってしまったと言う事です。更には地域の高齢かも深刻で、誰も来ないうえに、将来的には誰もいない街になってしまう危険性も抱えているのです。



現地の方とも色々お話を聞かせて頂いたのですが、人の気配が無くなると言う事を本当に深刻に捕らえているように感じました。印象深かったのは一面更地となった十八成浜の街を月に数回訪れる名古屋からのボランティアがただ歩いているだけで嬉しいという事をおっしゃて頂いた事。到着後のミーティングで「来ただけでボランティア活動の9割は達成したと思ってください」という言葉もかけて頂いたのですが、それは安易な歓迎の言葉や労いではなく、かつて海水浴客や鳴き砂を目当てに訪れる人々によって栄えてきたこの地において、人の気配というのがこの地ではいかに大切であるかを意味しているのだと思いました。




しかし、砂浜を復元するには恐らく行政やら復興予算だとか難しい方々の知恵に頼らないといけない訳で、現状、力仕事班のボランティアは先述の桃源郷プロジェクトのお手伝いです。植樹を予定している箇所にある倒木の処理等、工程的にはまだまだ初期の段階ですが、多いとはいえないボランティアと現地の方々で協力し倒木を運んだりしていました。



将来的には桜や梅、様々な木々を植える事で、多くの人々で賑わう花の名所となる事を現地の方々も望んでいるようです。仮に桃源郷のようになったとしても人々が集まるのは短い期間に限られます。継続して人が定住するような地区になるのが最も理想なのですが必ずしもそのようになるとも限りません。ただ、砂浜を再生する計画もあるようなのでもしかしたら春には花の名所として、夏には海水浴場として、3.11以前よりも人々が集まるようになるかもしれませんし、このボランティアに携わった人の中からこの地に移住すしようと思う人も現れるかもしれません(超理想)・・・

まぁそこまでとは言わないまでも7000人という名古屋周辺の方々が震災直後からこの地でのボランティアに携わっている訳で、毎年多くの人々が再訪するのでは?と思いますし、そうなって欲しいですね。

理想的な将来像を思い描いて、今が一番楽しい時期だ!と思われる方ももしかしたらいるのかもしれませんが、何もしないと確実に街は死んでしまう訳です。仮に誰も住まない街になってしまったとしても、春になると数千本もの桜の木が咲き乱れ、その時だけでもかつての住民の方が集い、話に花を咲かせられるような美しい街に最低限なってほしいと思いますし、その為に今後も継続して応援して行く事は必要でないかと思いました。



今回あまり写真は撮っていないのですが少しだけ十八成浜の光景をご紹介



牡鹿半島は震災後、アメリカ側に5メートル移動し1メートル近く陥没したそうです。先にも述べましたが砂浜はその影響で沈下しほぼ消滅してしまいました。沈下した分海面が近くなってしまった訳ですが、堤防の整備は中々進まずに今でも土嚢が堤防代わりです。



山の斜面から運び出した倒木を、軽トラで処分しに行く際に色々と現地の方々話を聞いたのですが、海に注ぐ小さな川に掛かる橋はかつて水面まで3〜4メートルまであったそうですが、今では橋げたが水面に付きそうなまでになっています・・・話で聞いた橋は上の写真の橋とは違いますが、恐らくこの橋も同程度沈下してこの状態になったと思います。



海を見下ろす白山神社。社殿までは津波は到達しなかったとの事で、何十メートルもの地点まで津波が遡上した他地域に比べたら十八成浜の津波は大した事がなかったと皆さんおっしゃっていましたが、それでも海沿いの建物はほぼ流されてしまった訳ですから喜んでいい話でもありません。沖合いにある網地島という離島が津波の力を幾分和らげてくれたそうです。


午後からは仮設住宅に伺ってお年寄りの方々と交流させてきましたが、狭い仮設住宅で暮らす人々が求めているのは笑顔であり、最も避けたいのは高齢者を孤独にさせると言う事だと思いました。瓦礫の処理が終わり、仮設住宅の建設も終わった今、ボランティに出来る事はかなり少なくなってきていると思いますが、高齢化が進む被災地に於いてはメンタル面での支援というものが今後も継続的に必要であり、現地に行ってお年寄りと食事をして会話をする・・・それが例え月に数回の活動であっても、一日中に狭い仮設住宅で更地となった故郷を見下ろして暮らす人々にとっては必要であるという事でした。

非常に短い滞在で、移動時間の方が遥かに長い強行軍でしたが、活動を終えて感想を述べ合った時に「楽しかった」というボランティアが多くとても印象に残りました。それは被災者の方も同じで、ボランティアが来てくれる事を楽しんでくれているようでした。震災直後のボランティア活動は過酷で、絶対に楽しかったなんて言えなかったかと思います。しかし様々な区切りを迎える度に活動内容は変化し、人々の心の変化も相まって、お互いに笑顔で行えるボランティア活動もあるのだと思いますし、このようなレールを敷いてくださった関係者の方々の努力には頭が下がります。

実際には全ての人が笑顔ではなく様々な温度差も存在するかと思いますが、本当に十八成浜が美しい街へと復興して欲しいと思います。故郷が美しく復興する事と人々の心が満たされ豊になる事がイコールの図式で成り立つからだと思うからです。

阿部邦子さんという十八成浜在住の作家の方から、自身の体験談を聞かせて頂いたのですが「生きて」という亡くなった方々の叫びともいえる言葉が忘れられません。十八成浜にはこれから何度も訪れる事になると思います。それはボランティアとしての再訪かもしれませんし、いつか桃源郷のように美しくなった十八成浜を見たくてかもしれません。しかしそれまでには最低でも生きていないといけません。


次に訪れたとき、今回のように十八成浜の皆さんはきっと笑顔で迎えてくれると思うのですが、それも生きていればこそ。

生きていれば再訪できて再会できる・・・当たり前の事ですが、とても尊い事だと思いました。

今後どれだけ頻繁に伺えるかは分かりませんが、長いスパンで支援活動に協力できればいいなと思います。


 http://aichiborasen.org/ 愛知ボランティアセンターHP